おそらくもう何十年も繰り返されている「最近の若者は…」論ですが、近年では「新型うつ」や「ブラック企業」などといった言葉も登場するようになり、いささか「いつの世にも語られる精神論」だけでは片付けられない状況が訪れているように思います。このことについて考えているとき、ちょうど読んでいた本の中に非常に興味深く、多少なりとも当事者の救いになり得るような言葉と出合いました。世界的な人気を誇る作家・村上春樹と、翻訳家・柴田元幸によるフォーラムなどでの対談をまとめた『翻訳夜話』に出てきた、こんな会話です。
村上:柴田さんとの作業は、本当に早いんですよ。だらだらした部分は一切ない。とてもプラクティカルです。
柴田:他の人ではちょっとできないですね。僕はその場で、ここがこう違っていて、だいたいこういう意味ですというのを申し上げるわけですね。そうすると、その場で新しい日本語がぱっぱっと出てくるというのはね……。それから一般の……なんというか、人間って、誤訳を指摘されるとまずみんな傷つくんですよね。
柴田:うん、僕は間違いを指摘されても特に傷つかないですね。というのは、それはあくまで技術的な問題だから。技術的な問題というのは、まちがいを認めて、それを直して、もう一度同じ間違いをしなければ、それでいいわけです。すごく単純ですよね。そりゃもし柴田さんが僕の人間性の欠点についてあれこれ文句を言えば、僕だってそれはね……(笑)。
村上言いません(笑)。いや、でもそうですね。たいていの人は技術的な問題であるにもかかわらず、なぜか人格の問題として捉えちゃってね、翻訳って。間違いをすっと認めるということがたいていの人にはなかなかできなくて、だから、僕が村上さんとやっているようなことを他の人に対してやると、まずはその、まちがっているってことを指摘されたことに傷ついて、立ち直るのにいちいち三・五秒ぐらいかかるわけですね(笑)。
若い人は、怒られることに慣れていないと言われることがあります。それは家庭での教育方針の影響かもしれないし、なんだかんだ進学ができてしまう教育システムの弊害かもしれません。そうして歳を重ねていって、成人になり、社会に出たところで上司から叱責を受けることは、良く言えば通過儀礼のようなものですが、怒られる当事者としては大きなショックになります。さらに現代では、ネットやソーシャルメディアの浸透によって、自身の何気ないアウトプットが多くの人の目に触れる機会がネット以前とは比較にならないほど増えました。しかも、そこで炎上などをしない限りは、「自分は世間に受け入れられている」という承認欲求を満たされるような感覚を抱きかねません。
そんな曖昧な「受け入れられている感」に包まれた状態で叱責を受ければ、その反動もかつてとは比較にならないほど大きくなっているのではないかと私は思います。しかも、ソーシャルメディアなどでのアウトプットは、自身の人間性と文章を書いたり写真を撮ったりという技術的な動作の混ざったものですから、そこを切り離して整理するということが難しいです。そこで受ける叱責は、怒っている側には単なる技術的な問題を指摘しているつもりでも、怒られた側には上手に切り離して考えることができず、過剰に自身を傷つけてしまいかねません。
だからこそ、私たちは村上氏の言うところの「技術的な問題」を上手に切り離して理解し、学習していく必要があります。社会人における成長というのは、人間的に大きくなることだけでなく、技術的な伸びもあるのだと、しっかりと理解した上で日々の仕事に向き合っていくことが肝要なのではないでしょうか。