誰もがどこかで一度くらいは耳にしたことがあるであろう「自分は褒められて伸びるタイプの人間です」という言葉。叱られるのがイヤだというのは、そもそも当たり前の感覚であって、そこに愉悦を見出すのはそういう類の趣向を持った人間に限られる。もちろん、叱られることで余計に発奮して力を発揮したり能力を発揮したりするタイプの人間はいるだろうが。まぁ、そもそも褒められて怒り狂う人間というのもほとんどいないわけで、世間的には褒めること=良いことと捉えられているはずだ。
さて、Twitterで佐々木俊尚さんが紹介していたブログ記事「子供を褒めて評価するのは良くないらしい」が目についたので、今回はこれを紹介しつつ思ったことを書いていこう。『嫌われる勇気』という哲学者と学生の対話集だそうで、記事にも引用されていた文章をここに改めて紹介しよう。
【以下引用文】
人は他者からほめられるほど、「自分には能力がない」という信念を形成していく。〈中略〉ほめることとは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」
もしあなたが、ほめてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは縦の関係に従属し、「自分には能力がない」と認めているのと同じなのです。
人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」
【引用ここまで】
予め言っておくが、私自身、褒めて伸ばす教育が間違っていると言いたいわけではない。ただ、「褒められる側」の人間(教育のおいては子どもや学生にあたるだろう)が、「褒められること」に愉悦を見出し、そこにしかアンテナが反応しなくなってしまう危険性に注意しなくてはいけないということだ。
記事を読みながら頭に浮かんだのはマンガ『四月は君の嘘』の話だった。主人公のピアニスト・有馬公生が、指導者でもあった母親の期待に応えよう、母親に褒められたいという強い思いが仇となり、演奏中に音が聴き取れなくなるという症状に悩まされるという話だ。多くの観客や聴衆に向けてではなく、ひとりの人間(後に母親は亡くなっている)に褒められ、認められることに「目的」が向かってしまい、演奏すること本来の楽しさであったり面白さを見失ってしまったということだろう。
自分自身のことを思い返してみれば誰でも分かることだが、目上の人に向かって「褒める」という行為を、私たちはやっていない。そこには既に縦の関係が出来上がっているからで、上の人間が「能力がある」というのは「当たり前」のこととなっているからだ。
さらに言えば、日本は年功序列型の社会で高度成長期を駆け抜けてきたわけだが、そこには年長者=上司/先輩という構図がどんな企業にでも存在してたはずだ。今の社会の歪みのひとつでもある年功序列制度と実力主義制度の埋まらないギャップは、資本主義の社会にそれだけ年功序列制度がビシッとハマっていたということの裏返しでもあるのだろう。
就職活動などにおいても、履歴書やエントリーシートに書く内容、面接で聞かれたら話そうと思っているエピソードや思いなど、それらが面接官に「褒められること」「受け入れられること」を目的とした、いわば「ドヤ顔」で伝えかねない内容になってはいないだろうか。小学校の頃、テストで良い点を取って、母親に褒められるのを期待して家路につく時のような期待感を抱いてはいないだろうか。褒める/褒められるの関係性には、それだけの魅力がある一方、褒める側も、褒められる側も、そこに冷静さを持ち合わせておく必要がありそうだ。「一緒に働きたい」と思わせることができるか、「こいつは便利に使えそうだ」と思われてしまうかは、自分次第なのである。