今、日本の労働環境において、新しい判断基準を導入するという話が持ち上がっています。何についての判断基準かと言うと、ずばり「お金」のこと。労働「時間」よりも「成果」を基準として給料を計算しようという話が持ち上がっているわけです。
この話が持ち上がった理由のひとつとして「労働の効率化」ということが挙げられます。海外から見た日本人のイメージとして常に付きまとっているのが「勤勉」というもので、「日本人は本当によく働くよね」という意見はよく耳にするでしょう。ただ、「勤勉」と書けば耳ざわりが良いですが、それは「自分の国に比べて」ということであり、厳しい言い方をすれば「何でそんなに働くの?」という疑問を持たれてすらいます。でも、日本のサラリーマンからすれば「残業なんて当たり前で、定時に帰れるなんて基本的にあり得ない」という意見がおそらくマジョリティでしょう。
ある会社に2人の社員がいて、Aさんは2つの仕事を定時までに終わらせて残業ゼロで帰ることができたとします。一方で、Bさんは2つの仕事を夜遅くまで残業してなんとか終わらせたとします。この時、同じ内容の仕事をしたにも拘らず、支払われる給料は残業をしたBさんの方が多くなってしまいます。効率よく仕事を終わらせたAさんは、更に別の仕事も頼まれるかもしれませんが、残業をしない限り、給料は変わりません。ここには多くの人が「歪んだ平等性」を見出すことができるでしょう。
簡単な例を挙げましたが、時間から成果へ基準をシフトするということは、同じ時間内でいかに多くの仕事を終わらせ、より良い結果を出せたかがお金に反映されるということです。先の例で言えば、定時までに仕事を終わらせることができているAさんの方が効率的に働いていると判断され、より高い給料が支払われるかもしれないということです。ただ、仕事における「成果」をどう判断するかという部分は企業によっても、それを判断する人によっても差が生じてしまうのは必至で、そこを画一化するのはかなり困難な作業になることも予想できます。
「個性を伸ばす」という考え方が流行ったり、年功序列から成果主義へのシフトチェンジなど、平等で、先の読みやすい仕組みでここまでやって来た日本社会は、経済成長が大人しくなったことによって「変化」を求めている状況です。経済成長が「ある面」において私たちを豊かにしてくれることはこれまでの時代が証明していますが、同時に私たちは「また別の面」における豊かさについても考えていたりします。そういった言葉が安易に使われるようになったことで、いささか言葉が摩耗してしまった感も否めませんが、私たちはうまいこと「結果」と「過程」のバランスを探っている最中なのでしょう。「結果がすべて」「過程こそが最重要」どちらの意見にもある程度の正当性は見られるし、どちらかだけを選ぶことはきっと不可能だと思います。
政治とは、敵と友を作ることだと、ある本で読みました。何をどう決めても、全員が敵になることも友になることもありません。かならず一定数の敵と友は生まれてしまうということです。しかし、敵を作ることになるとわかっていても「決める」ことが政治の仕事であり、そこは割り切らなければ前に進めることができません。ですから、今回の一件にしても、必ず敵と友は避け難く生じてしまうわけですが、きちんと話を煮詰めた上で焦らずに決めて欲しいものですね。