平等ではないけど、対等であると認識する。

これは心理学者アルフレッド・アドラーの言葉です。組織として年功序列や肩書きなどと言った「上下関係」が重視されがちな日本では難しいのかもしれませんが、公私において適切な対人関係を結ぶために非常に重要な考え方でもあります。

平等ではないというのは仕事云々の話よりもずっと手前の、人間はあらゆる点においてバラバラでひとりひとり違っているという意味です。誤解を恐れずに言えば、ある意味では不平等なのは当たり前、それを自分が受け入れられるかどうかの問題だと思います。そして、重要なのは「対等」とはどういう意味なのかということです。

私たちは上司/部下、先輩/後輩、親/子などなど、生活のあらゆる所で肩書きを使い分けて暮らしています。そして、往々にしてそこには目に見えない上下関係が結ばれており、目上の人間からの命令と目下の人間の服従という状況が出来上がっています。私自身、部活動や会社でその上下関係を結んで過ごしてきた人間ですから、組織を動かす上でそういう関係性を築くことの効率性は理解しているつもりです。しかし、それが絶対的なものであると思い込んでしまうのは非常に危険だとも思っています。

そういった上下関係はあくまで一時的なものに過ぎず、時として上下関係を取っ払ったコミュニケーションというものが必要になります。分かりやすい例で言えば、上司のミスを部下が訂正できるか、といった話でしょうか。話をされた時点で間違っていると分かっていても、上下関係、服従が絶対だと思い込んでいれば、部下は何も言えず、ミスを含んだ仕事を進めなくてはいけません。客観的に見れば、「間違っているならきちんと指摘しないといけない」と簡単に言えますが、実際に自分がその場にいる部下だとしたら、かなりの「勇気」を要することも理解できます。

しかし、アドラーはその「勇気」こそが重要なのだと説いています。一時的にであれ険悪なムード、関係性になったとしても、それは組織を適正に運営するために必要なものだ、と。少し前にドラマ「花咲舞が黙っていない」で、主人公の花咲舞が上司や明らかに肩書きが上の人間に対して「お言葉を返すようですが…」と切り出すシーンが話題になっていました。半沢直樹をマイルドにした言い回しに視聴者は、痛快さよりも共感を得ていたのではないでしょうか。

話を戻します。上下関係は必要なものだけれど、それは実際のところ極めて曖昧なものであって、時として上下関係を無視して対等に接することが求められます。上下関係だからできるけど、対等な関係じゃできないことなんて、おそらく「命令と服従」というものぐらいではないでしょうか。前に「言われたことをやっていればいい」ということについて書きましたが、そことも繋がりますね。言われたことをやるのは基本として、自分がより成長していくため、能力を磨くためには対等に接することが絶対に必要になってきます。上下関係と言う、ある意味では守られた環境から脱するわけですから、失敗したり傷つくこともあるでしょうが、その先にこそ成長と充実みたいなものが得られるのではないでしょうか。